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2018年4月○日 無量塔

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大きな硝子戸を全開にして、眩しい陽光を浴びながら何度もお湯に浸かる。
鳥のさえずりや葉擦れの音が、流れるお湯の合間を縫って聞こえてくる。

湯船から上がると、結子はリビングのオーディオでモンクを聴いていた。
「モンクのピアノって忘れられない憎たらしい男に似てると思わない?」
と言った。
独特のリズム感、わざとはずしたようなコード、自分でも好きなのか嫌いなのかよく分からないけれど、一度聴くと頭の隅に引っかかってしようがない。

「そういえば、結子はどうして特定の男性がいなかったの?」
ぼんやりとした個性のない顔の私と違って、結子は目鼻立ちがくっきりとしていて華やかな存在で男性からも女性からも人気があった。
そんな彼女なのに恋人の匂いは全く感じることがなく、私は昔からずっと不思議で仕方がなかった。

「私はね、大学を卒業したら医者と結婚するって決めてたから、誰ともステディな関係にはならなかったの」
「どうして?」
「両親の本当の子供じゃないからよ」
とこともなげに結子は言った。
「そんな冗談でしょ」
高校からいつもいつも一緒にいたけれど、そんな話は聞いた事もなく俄かには信じられなかった。

「ほんとよ。高校に進学するときに両親から打ち明けられたけど、私はパパもママも大好きだったし別に何とも思わなかった。人間て自分が産まれた時の記憶ってないわけでしょ。私にとってはどうでもいいことだったの」
と言って、産まれたばかりの結子が世良家の養女になった顛末を簡単に話してくれた。
産まれて3ヶ月余りで突然死でなくなった世良家の長女のこと。
その後結子のお母さんは、狂ったように泣いては我に却ってぼんやりとし、毎日をふわふわと漂うように過ごしていたこと。
それから半年ほど経って、縁あって遠縁の結子が世良家の一員になったこと。

「話の最後にパパがね、お前が私達の所に来てくれて母さんの止まった時計の針がまた動き出したんだよ…って言ったの。泣かせるでしょ」
と言って笑った。
「だからそんな話を聞かされても何にも変わらなかったけど、ただ一つだけ変わったことがあるの。それはね、両親が自分に何を期待してるかっていうのを敏感に感じるようになったの」

「うん」と答えて
「結子は一人っ子だからお父さんの病院を継ぐのかと思ってた」と言った。
結子は成績も群を抜いて良かったので、その選択肢も充分あったと思う。

結子はまたけらけらと笑いながら
「それって出来すぎでしょ。それに町医者は嫌だった。今はそうでもないと思うけど私の子供の頃はね、町医者は365日24時間仕事をしてるようなものでね、ママなんか看護婦さんに気を使って外出する時も裏口から出入りしてたのよ。だから真ん中をとって勤務医と結婚することに決めてたの」

私は結子が昔から大人だった訳が、やっとはっきりと分かったような気がした。

「さぁ、またお風呂に入ってくるか」
と言って結子は立ち上がった。

私は読みかけの本を出して頁を開いたけれど、先ほどの話がリフレインしていて読んでいる内容は上滑りだった。


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ミステリーは読み始めると止まらないので、日常の生活では読むことを自分に禁じていた。
私はお店を始めてから「なお」に少しでも差し障りのあることは一切しないと決めていた。
休みが数日続く時か、こういう時しか読むことができなかったのである。


Commented by fusk-en25 at 2018-04-04 12:19
さすがにまだこれは読んでいませんが。。
「原尞」は好きな作家です。
チャンドラーより好きかな。
Commented at 2018-04-04 13:20
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by thesakana at 2018-04-04 13:24
過去の作品、多分「さらば長き眠り」だったと思いますが、
読んだことを忘れて2度買いして途中気が付いたということがあります。
次はいつ会えますかね?
Commented by syun368 at 2018-04-04 17:59
fusk-enさん
原りょう ご存知でしたか 嬉しいです~
ご存知の方が少なくて寂しい思いをしてました。

私もフィリップ・マーロウよりも沢崎のほうが好きです。
13年間待った新刊、次はいつ沢崎に会えるのでしょう…
Commented by syun368 at 2018-04-04 18:08
13:20の鍵コメさん
結子の話は 事実とは大きく違うのですが、全くのフィクションというわけでもないんです。
なので出来るだけさらっと書くつもりだったのですが、ごめんなさいね。
私は、本当の悲しみを知っている人ほど強く優しくなれると信じています。
きっと鍵コメさんも素敵な方だと思います。
Commented by syun368 at 2018-04-04 18:13
duoさん
あります あります そんなこと。
でもついでに最後まで読んじゃいますけど…

次はいつ沢崎に会えるのでしょうね。
この次も13年間待つようなら もう読めないかもしれません(笑)
Commented at 2018-04-05 18:36
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by syun368 at 2018-04-05 22:36
18:36の鍵コメさん
はい syunと呼んでいただけると嬉しいです。

私も涙腺弱い年齢になってしまいました。
by syun368 | 2018-04-04 11:41 | お出かけ | Comments(8)